▼ プロフィールProfile
佐藤豪 |
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油彩画家として12年目を迎え、様々なご縁をいただき、この生き方を継続できそうな手応えを今では感じられるようになりました。人生に、無駄なことはなかったです。例えば油彩画家というと、つい出身校(美大等の経歴)などクローズアップされがちな中で、私は美大等を出ておらず、様々に独学で作品制作を追及する日々を意図せず歩んできました。今から思えば全ての実体験が、私にとっての学業に代わるものばかりでした。こうしてプロフィールを書いていると、始めから油彩画家を目指したわけではなかったのに、様々なご縁や巡り合わせから、現在の状況に繋がっていることを不思議に感じます。今後はさらに、これまでのことを活かし、様々な観点から、自分流の作品を制作してゆき「画家として」という枠に捉われず「作家として」まだまだ新たな取り組みにもチャレンジしてゆきたいと思っています。
1976年、広島市中区舟入に生まれる。辰年。A型。
地元の保育園、小学校、中学校に、ほぼ休まず通った。
少年時代はまだ古き良き駄菓子屋が明確に存在し、少年ジャンプは北斗の拳、キン肉マン、ドラゴンボール等が人気で、家庭用ゲーム機はファミリーコンピュータ、ディスクシステム、スーパーファミコンが常に話題、そういう世界を、全て踏襲。セガ・マークⅢ、PCエンジン、メガドライブ等も、全て体験した。
リアルおもちゃでは、レゴブロックはもちろん、ルービックマジック、ショーギウォーズ、うなぎ小僧つるべぇも、もれなく体験。映画では、ターミネーター、ロボコップ、スタンドバイミー等を観て、音楽は THE BLUE HEARTS や JUN SKY WALKER(S)、アンジー、ユニコーン等、ここで書き切れないくらいをよく聴いた。
本質的に面白い漫画、アニメ、テレビ番組、映画、音楽、各種エンターテインメントを多く体験しながら、それら心に残ったものを、常に絵に描いて過ごし、自分で空想した漫画(ストーリー漫画)を、描くこともあった。
表現は絵、漫画だけでなく、音楽もあった。中学2年から趣味で始めたアコースティックギターは、今でも続く。
1992年、広島電機大学附属高等学校(現 広島国際学院高等学校) 入学。
高校に進学してからは、即座に、飲食店でアルバイトを開始。週5の勤務と、学業を、並行した。飲食店の厨房に入っていたので、一通りの調理や、味付けの仕組み、仕込みを覚える事が出来た。
そんな学校生活だったので、幸か不幸か、早い段階で、マイペースな生き方を獲得。学校の外に世界を作り、お金を稼ぎ、当時好きなものにとことん触れていた。アルバイトで稼いだお金は、必要な部分を除いて、特に、音楽機材や、音楽CDに消費することが多かった。その環境下でシンセサイザー、シーケンサー(音楽編曲機材)を開始し、自分で音楽を作曲し編曲する、ということも行うようになった。
ものの仕組みを多く分析し、実際に自分がそれを行うということを、多くしてきた。自分の中で作品世界を展開してゆくことが、とにかく好きだったのである。
学業をもっと真剣にやってもよかったのだけど、エンターテインメントを様々に謳歌したことが、現在の生き方の中では、マイナスにはなっていなかったように思う。
1994年夏(17歳)、高校3年の夏より漫画を描き、漫画の公募に投稿し始める。
漫画というのはアイディアを練り、キャラクターを考え、ネーム(作画プロット)を作成して、コマ割り、ペン入れ、スクリーントーン貼り等の作画を経て完成するもので、作品を一から創造すること、そのものであった。
高校卒業を控え進学や就職というのを考えるでもなく、その点ではタイムリミットのように圧迫される心境はなかったけれど、その自由な分、今思うことだけはやろうと、真剣に漫画の制作に取り組んだ。
制作した読み切り漫画の作品数は卒業前・卒業後合わせて30数点ほど。
広島電機大学附属高等学校(現 広島国際学院高等学校) 卒業。
何の受賞もないまま高校を卒業。その状況のまま漫画を描き続け、卒業をした年(1995年)の秋に、ようやく初めて受賞。1995年・1996年に、漫画作品で計3回の受賞。うち2回の授賞式は、東京都文京区関口の椿山荘だったので、打ち合わせも兼ねて、東京への行き来も多くなり、東京を身近に感じるようになる。以降アルバイトを重ね、上京資金を貯める。
1999年2月(22歳)、上京。その二ヶ月後の1999年4月、東京浅草の浅草寺(せんそうじ)で露店の似顔絵屋を開く。
上京の本来の目的は漫画家を志望したものであり、生活の一手段として似顔絵屋を開始したというもの。
そもそも似顔絵屋を選んだ理由は、二つ。上京直後に、とある場所で似顔絵屋を見かけて、直感的に華やかでやりがいのある感じを受けたこと。もう一つは、自活をする以上、稼ぐことは必須、ならば、漫画に近い、絵を描き続けることを生業にしたかった、というものだった。
候補地は、「雷門」で有名な、「浅草寺」がよいと即座に考えた。
そんなに簡単に似顔絵屋を出来るわけではないので、出来るように足を運ぶことを重ねて、挨拶、営業をし、真面目に邪魔にならないように行うという表明をたくさん行って、同時に準備も整えて、浅草の浅草寺にて、似顔絵屋としての活動が出来るに至った。
いわゆる観光地で露店が立ち並ぶ中に似顔絵屋を出したもので、お客様の多くは観光客だったため、様々なタイプの人々の似顔絵を描くことが出来た。お客様は、それぞれに様々なドラマを持っていた。外国の方とも多く接した。老若男女問わず、描く日々だった。色紙1枚の中に、1人~4人など、色んなパターンで、観光地らしく描いてゆくこと、それは、様々な方々や、その時々のイベントに対応し得るように作品を描き込むという、発想を磨き、エンターテインメントとして成立する作品を作り続ける、という修練でもあった。
似顔絵は独学だが、概ね本から学んだ。アンドリュー・ルーミス著、「やさしい顔と手の描き方」を参考にする。
これら似顔絵は、筆ペンと、水彩によるものであった。1枚の価格は、1000~5000円(人数や内容によって細かく設定していた)。
「漫画の道」とは別に歩み始めた、「絵の道」だった。
2001年~2002年(24~25歳)、また、時には似顔絵屋を休止し、他のアルバイトを幾つか行わざるを得ない状況にもなる。その仕事の中で、長い時間をかけた全国行脚の旅も経験。
全国行脚では、気仙沼、宇都宮、甲府、伊根、明石、下関、宇和島、諫早、久留米など、多くの土地を観て回り、全国の風景を鮮明に記憶に焼きつける。
記念すべき25歳の誕生日は、たまたまその時回っていた、高知市で迎えたのを覚えている。
全国行脚で訪れた、京都の伊根の夕暮れ時の美しさは、忘れない。
2002年(25歳)、やがて似顔絵屋のお客様や評判を聞いたという方々から、「ウェルカムボード」「サンクスボード」「肖像画」「家族画」といった特殊なご注文、ご要望も来るようになり、それら大判の人物画を描くべく、エアブラシを開始する。
エアブラシは、スプレーアートである。ただし市販のカラカラと振るようなラッカースプレーではなく、カップ付きのハンドピースに、任意の絵具(例えば水で溶いた絵具)を注いで、それを細かい手作業で吹き付ける、というもの。空気圧により吹き付けるので、エアーコンプレッサーと組み合わせる。
エアブラシによる人物画は似顔絵に比べ、遥かに色味が鮮やかで写実的で、大判ということでの迫力もあり、このことに手応えを感じ始める。メニューとしては“似顔絵は似顔絵”、“エアブラシ画はエアブラシ画”、ということで、価格設定も明確に分け、受け付け方も、“即興の似顔絵”、“注文制作で長期でやるエアブラシ画”、と線引きをしていた。
価格は、似顔絵が1000~5000円であるなら、エアブラシ画は、当時で、3万円前後で請け負っていた。
エアブラシ画はもちろん屋外では出来ないので、ご注文をいただければ、お顔のお写真をお預かりして、自宅で描くという形態だった。
しかし事実は、こうやって絵のレパートリーを拡大するということはここで書くほどたやすいことではなく、エアブラシを取り入れた後でも、何度も様々な画材にチャレンジしては、間違いに気付き、試行錯誤を繰り返した。エアブラシという技法が、その様々なチャレンジの中で残ったという方が正しい。
「漫画の道」とは別に始まっていった、「絵の道」が、さらに深く、歴史になりだしていた。
2003年8月(26歳)、「FLOW」という漫画作品で、講談社 週刊モーニング 第14回 MANGA OPEN 大賞受賞。その翌月の9月、週刊モーニング誌上にて、漫画作品「FLOW」漫画デビュー。
受賞に至るまでには、様々な背景があった。
遡り、2002年の年末に、この1回前の、第13回 MANGA OPEN に、読み切り漫画作品を1作投稿し、小さな賞を獲得していた。題は「ふたりの一日」。
この第13回の「ふたりの一日」の方では、選考結果は奨励賞に過ぎず、これはものの数ではなかった。しかし、講談社の担当編集者の方が代わるというきっかけとなった。とある編集者の方が、この時の僕の作品「ふたりの一日」に興味を示し、僕を指名してくださったのである。
それから、2003年の春にかけて、新しく組んだ担当編集者の方と、公募でのもっと上の受賞を目指し、ネーム(プロット)の打ち合わせを繰り返す日々があった。これが冒頭に書いた「FLOW」という漫画の始まりであった。当時一人暮らしをしていたアパートから、講談社のある護国寺まで、打ち合わせをしに、足しげく通った。一方でそれは、生活費のために、似顔絵屋は似顔絵屋で営業をし、夜間はキャバクラのボーイをする等、漫画制作というクリエイティブなことを求める中で、金銭面でとことん苦労する日々でも、あった。
2002年の年末、クリスマスシーズン、キャバクラのボーイだった僕は、店の古びた洗濯機で、キャバ嬢たちのコスプレ衣装と称する“サンタ服”を大量に洗濯してソファーに干していたことを、忘れることはない。また、大晦日も元旦も返上して、初詣客でごった返す浅草寺の境内で、似顔絵屋をせざるを得なかった、金銭面・体力面の余裕のなさも、忘れない。キャバクラのボーイ、似顔絵屋、漫画のネーム制作という、トリプルワークの日々だった。しかもこんな時に限って、歯の治療が重なり…、生活環境は、ガタガタだった。
悔しさも鬱屈も屈辱も、バネにして、這い上がりたいと願う一方、ほとんど寝ない日が続き、体力も精神力も、最もきつい頃だった。
漫画の担当編集者の方は、作品に対して厳しい目を持っておられる方で、この方との打ち合わせは、漫画を超えて、様々な勉強になった。漫画作品「FLOW」のネームは、幾度も手直しをし、幾度も担当編集者の方に持ち込み、幾度も不備を指摘され、作品作りの厳しさを改めて実感した。幾度目だっただろうか、熟考して満身創痍で描き上げた、最後の血の一滴までを絞り出したようなネームで、やっとOKをもらえたのが、2003年4月のこと。
黙ってネームを読んでいた担当編集者の方が、読み終えた後にひと言、「頑張りましたね」と言ってくれた。そのひと言は、仏の言葉を聞いたような気持ちだった。
「佐藤さん、佐藤さん」と、いつも僕を励ましてくれる方だった。
作品世界についてこれほど深く踏み込めて話せることが出来た方は、後にも先にも、この方以上の誰かには、出逢ったことがない。この方に褒めてもらえることが、僕はいつも、本当に本当に嬉しかった。
ネームがOKをもらえたなら、今度は、それを原稿に起こすという作業が待っている。漫画原稿は、この2003年5月、あまりに時間がなくて、浅草寺での似顔絵屋の、客待ちの間、露店のテーブルの上で砂埃を掃いながら描いていたのをよく覚えている。5月末がこの公募の締切日であった。締切日までに原稿を上げるのは、本当にきつかった。それでも、何とか締切日までに描き終えた。漫画原稿は、48ページに及ぶものだった。
漫画を公募に出し、選考結果が出るまでには、数ヶ月かかる。
僕はその間、次なる金繰りが必要で、千葉の東松戸という所で、夏季のアルバイトに明け暮れた。遠かった。何も、東京と千葉の距離でアルバイトをしたいわけがない。しかし、僕がしたアルバイトは人材派遣のもので、その強引ともいえる派遣先が、千葉というものだった。背に腹はかえられない。だから、やった。交通費を浮かすために、原付バイクでそこまで毎回往復した(もちろん交通費の詐取ではなく、先に自腹で払う交通費さえ厳しかったというもの)。東松戸で大半を過ごした2003年の夏、仕事での火照りもあって、とても暑かった。
ところで、担当編集者には、日頃から、僕が今資金に乏しく、仕事やアルバイトが必要だという件を、よく、話していた。そんなご縁から、担当編集者の紹介で、この8月から漫画アシスタントを開始する(アシスタントのエピソードについては、後述)。
その様に色々あった、この夏の終わり、2003年8月のある日、担当編集者の方から、描き終えて公募に応募していた「FLOW」の、その選考結果の知らせが届いた。
受賞。
漫画の受賞ということ自体は、人生で5回目のことなので、もう驚きはしなかった。しかし、その次の瞬間、その中身には、心底驚いた。それは、「大賞」との結果だったからである。大賞の受賞はすなわち漫画デビューを意味し、それは僕の願ってやまない、いつ叶うか分からない、遠い夢でしかなかったものだったからだ。すぐには実感がなく、それを嬉しさとして消化するまでには、少し時間がかかった。
その結果を聞いた日の夜、アパートのベランダから夜空を眺めて、何とも胃がスッキリしないような感じがしていたのを、よく覚えている。
自分の漫画が掲載された漫画誌が発売されるのが、待ち遠しかった。その掲載誌の発売日は、2003年9月4日。コンビニに漫画雑誌が陳列され始める午前3時くらいに行き、すぐ買い、その夜道を、大事に大事に、持ち帰った。
担当編集者の方のご尽力あればこそで、今でもその方のことを、そして、そのきつさの中で、長年の夢だった結果の一つを手の中に掴んだ日々を、忘れることはない。
僕は、例えば、いつも誕生日を祝い合ってとか、いつも飲みに行ってとか、いつも友人が大勢いてとか、そういう青春は、残念なことに、歩んでいない。いつもあったのは、作品に関わる日々と、試練というものばかりだった。その20代の試練の中でも、最たる年が、2003年だったといえる。
僕の2003年は、ドラマティックだった。
2003年8月(26歳)、担当編集者の方の紹介から、漫画アシスタント(レギュラー)を開始する。漫画制作の現場に入り、漫画の背景等を描く日々が始まる。漫画アシスタントの職場は、吉祥寺。
吉祥寺に通い続ける日々が始まった。
また一方で、自分自身の連載を獲得するため、漫画雑誌の担当編集者と打ち合わせを数多く行った。
これらのことから、浅草の似顔絵屋は終了。もはや、露店を出すことはなくなった。
ただし、エアブラシ画の注文制作だけは、口コミで注文が来るのであれば、断ることもなく続けた。自分の中にある「絵の道」は、決して断絶しなかった。似顔絵はいつしか、似顔絵から派生したエアブラシ画に形を変え、「ウェルカムボード」、「サンクスボード」、「家族画」等のものとなって、僕のレパートリーになっていた。これは明確に、似顔絵屋をルーツとして始まった僕の「絵」の歴史だった。似顔絵屋をやってきた僕だからこそ、描けるものがあった。
2003年~2007年(26歳~31歳)、これら「漫画の道」、「絵の道」を並行。
「絵」の方は、プラオオリティーが高いわけではない。プライオリティーはもちろん、漫画の方が高かった。
正確にいうと、「絵」は断絶しないままそこに常にあったもの、といえるものだった。
漫画の道に話を戻せば、漫画のアシスタント業は週4日くらいだったので、その他の時間はプライベートだった。プライベートの時間を使って行う、漫画の連載用の原案の打ち合わせは、うまくゆくことも、うまくゆかないこともあった。集中してそれに没頭する時期もあれば、つい若さや時間を過信して、あるいは苦しさを言い訳にして、しばらく停滞してしまう時期も、あった。
自分の連載用のネームがうまくゆかない頃、惰性でアシスタントだけをやる日々に焦りを感じながら、時間の過ぎるのがとても速かった。それを紛らわすように様々な工夫をするものの、ネームは空転するばかり。
何か目標を定めたのなら、変化球でこれを乗り越えるのではなく、直球で乗り越えなくてはならない。それも素早く、時間を大切にして。
このことは、後に教訓になるばかりだが、当時の僕には、気付けなかった。
参考画像は、当時、僕が連載用のキャラクターとして用意し、描いていたもの。
2007年秋(31歳)、漫画アシスタント終了。4年間レギュラーで勤め、連載終了に合わせての卒業。
2007年初頭頃から「漫画」と「絵」の二つの道は、次第に「絵」の道のほうが、僕の中で大きくなっていた。これははっきり、2007年頃から次第に「絵(エアブラシ画)」のご注文数が増え、「絵」のモチベーションが高くなっていったこと、一方で、「漫画」のモチベーションがこの頃には保てなくなっていたこと、があった。モチベーションの変化を自分自身で受け止める必要があった。
漫画アシスタントを終了した2007年後半から、「絵」の道への傾倒は、なお進んだ。
2008年(32歳)を境に、ある日に考えて考えて、画業をしてゆくことを明確に選択。「漫画」と「絵」という、どちらも自分の中で大きく歴史として育っていた二つの道から、「絵」という一つの道を選ぶに至った。
以降、画業を完全に中心に、エアブラシ画による、「ウェルカムボード」、「肖像画」等の注文制作に専念。
ただ、この頃は、「ご注文に応じて描く」というもの(似顔絵屋時代の職人としてのやりようが、まだ色濃く残っているもの)で、発表を目的としたものではなかったので、個展やグループ展を行うということはなく、いわば表に出ない職人的な形でのみ、人物画の注文制作の仕事を続けた。
クライアントの方々の要望をベースとしながら、一方で、自分の感じた世界観で、一点画を描く。これは厳しいながらも、大いに学ぶものがあったように思う。
人物画のクオリティが高くなるよう、この時期にとことん、エアブラシ人物画を深く研究した。クライアントの方々に作品の雰囲気を見せるために、サンプル画も、多く制作。
この時期には、エアブラシ画は、ものにより、3万円~10万円の価格で請け負っていた。ただ似顔絵と違う点は、量産出来ないことで、1点1点にかなりの時間を要する分、体力や持久力を求められるものだった。
2009年10月(33歳)、広島に帰郷。
「漫画」であれば東京で暮らす必要はあるものの、「絵」であれば場所は選ばないので、東京にいる必要はなくなってしまっていた。そんな頃に、東京で住んでいたアパートの急な事情を端緒として、それを機に、帰郷に至る。もちろん、背景には、様々な思い、葛藤があった。上京して、クリエイティブな事にずっとチャレンジし続けて、漫画デビューをして、漫画の現場にも最前線で入り、足しげく出版社に通い担当編集と打ち合わせを何度も行ってきた日々。それがあったのに、初志だった「漫画」へのモチベーションを保てず、「絵」に傾倒し、いつしか「絵」に走り続けていた日々。「漫画」と「絵」とをずっと両天秤にかけてきた。その事を自ら分かっていたのに、どちらへの手も、離せなかった、そんな背景、自身の招いたあらゆる事たち。
東京での失敗や苦難をバネに、もう一度ここから始めようと、広島を拠点に歩み出す。
2010年6月(33歳)、帰郷を機に、エアブラシ画の“発表”を開始。
これまでに描きためていたエアブラシ画(サンプル等)を、人前に出してゆくことを決めた。2010年~2011年、エアブラシ画による個展、グループ展多数。エアブラシ画家、佐藤豪ということをコンセプトに、活動を始めた。
特に作品数の多かったものは、2010年6月「佐藤豪個展 エアブラシによる人物画」広島市ギャラリー718、など。
発表を重ね、また、新しいご縁から、エアブラシ人物画の注文制作を、数多く行った。発表をすることで、ご縁は、増えていった。
当WEBサイトも、この30代前半の時代に開始。当初、このWEBサイトは、エアブラシ画家佐藤豪WEBサイトというものだった。
しかしやはりクリエイティブなことをする以上、金銭面での苦難は絶えず、僅かな期間で2回の引越をすることにもなる。金銭面の苦しさを埋めるために、2010年年末からアルバイトを集中してせざるを得なくなり、それから2011年夏にかけて、諸々のアルバイトや後始末に、時間をとられてしまう。新しい作画は、一切、出来なくなった。
しかし、後述するが、この期間に行ったアルバイトの中、サイン(看板)製造会社での、塗料の調色(色を作る仕事)に、運よく携わることが出来た。
そもそも、僕は最初、そのサイン製造会社の梱包の短期アルバイトに応募して、採用が決まって、梱包作業場にいた。
調色の仕事。これは本来、その道の専門家でなければさせてもらえないプロの仕事だが、現場で接することの多かった課長が、ふとした会話の中で、僕の画家という肩書を知ってくださり、塗料を扱う現場に入れてくださったもの。普通は短期アルバイトではとても入れてもらえない作業場だったが、課長がとても寛大で臨機応変な方で、このご縁は、本当に運がよかったといえる。
具体的にいえば、DICの何番とか、PANTONEの何番とか、そういう色指定に基づいて、基本12色の塗料を感覚で混ぜ合わせて、適量を正確に作る、というものであった。色を扱うのは、会社の製品の出来に本当に影響するので、1回1回が神経を使うものだった。
調色の仕事の経験は、絵を描く者として、本当に大きな財産になった。
2011年冬(35歳)、自分の思う作品を描くため、そしてさらなる絵の本質を追求するため、エアブラシに不足していることを、油絵に求め、もう一度一からやるつもりで、熟考した上、油絵に転向。現実の障壁を全てクリアし動き始めるまでに、時間がかかった。
これまでは、ことに「ウェルカムボード」や「家族画」等は、クライアントの方の意向に基づいての作品作りであったが、もっと深く、自分から能動的に作画してゆく絵を描き、そしてより認められ、中途半端ではない画家人生を進めたい、と切実に願ってのもの。
しかし実は、油彩画への移行には、その他にも幾つかの理由があった。
すでに広島で活躍しておられた、油彩画家の先生の個展を知り、その作品のレベルの高さに、感銘を受けたこと。
前述の、短期のアルバイトで、縁あって、色を見極める調色の仕事(サイン製造会社)にたまたま就くことが出来たことから、色を突き詰めるなら、油絵がよいであろうと感じたこと。
そしてエアブラシにはなかった、もっと物質的に絵を塗り重ねて、絵肌を本質的に作り、絵を追求したいという、思いを以前から抱えていたこと。
そのため、それまでのエアブラシ画は、発表、注文制作ともに全て止め、油絵の研究・作画に専念。
この油絵も、全て独学で開始したもの。それまでの全てのことが独学で開始したものであったので、独学にもう何も抵抗はなかった。
そして2012年元旦、京都取材(伊根や宮津の取材)を決行。風景画制作の下地を作った。京都の伊根は、約11年前、かつて24~25歳で全国行脚をしていた頃に、最も印象深かった場所。
油絵の研究、研鑽の日々が、始まる。死力を尽くして、アルバイトも多数重ねつつ、取材・構成・作画の全てに取り組んだ。目標を、2013年の個展と定めて。
2013年9月(37歳)、油彩画発表開始。
人生初の、油絵の個展、2013年9月 佐藤豪個展 2013 「 WINTER BAY CRUISE 」 広島市。初めて、ここまでに完成させた油絵作品26点を、正式に発表する。個展直前に、37歳を迎える。
同年12月、千葉でも個展を開催。佐藤豪油絵展 「 GO SATO SOLO EXHIBITION Ⅱ 」 千葉県八街市。
油彩画家として、2014年「 兼六園の花嫁 」「 CATS 」、2015年 「 Dramatic Runway 」、2016年「 スピカの天使 」…と、毎年の個展を続ける様になる。取材も毎年行い、特に海を多く取材し、海や波を題材にした作品を多く制作。「絵」に関して、本当の意味での画家としての人生が始まった。
また、そんな中で、お世話になっているギャラリーが改装をされるという際、ギャラリーの備品である棚の制作を引き受け、手掛けたりもした。
2013年以降は、毎年、油彩画展を続けてゆく形に。
2017年の11月頃から、絵画教室を開始する事を考え始めた(以前からそういった需要やお問合わせがあった事から)。同年12月、まずはチュートリアル的に、絵画教室のプレオープンを行った。店舗の一角や施設など、会場を借りる形での教室だった。その実験的な絵画教室のプレオープンで、有難い事に教室に通う事を決めてくださった数名の方があった。これを受け、年が明けて2018年1月から、正式に「佐藤豪絵画教室」を開業。講師としての活動が始まった。
一方で、日々の作画も行い、個展も継続。個展の広報で、ラジオやテレビなどに出演をさせて頂いたりも出来た。ラジオ、テレビ、共に、スタッフさんや出演者の方々も優しく、精一杯応援をしてくださる事に本当に感謝の思い。もちろん新聞社の方々や、個展に来てくださる来場者の皆様、教室の生徒の皆様に、そして家族に、ずっと感謝の思い。画家として、絵画教室の経営講師として、忙しく充実した日々が続く。
やがて「佐藤豪絵画教室」は、徐々に生徒の皆様も増え、店舗の一角や施設など、会場を借りる形では受けきれなくなった。そこで教室用にテナントを借り、「佐藤豪絵画教室」は明確に拠点を持って、より自由な枠組みで営業する形になる。テナントは4坪程度のものだったが、この頃には、まだ十分な広さだった。
「佐藤豪絵画教室」は、順調に進んだ。20代前半から似顔絵屋の活動などで“経営・営業”そのものには慣れていたし、似顔絵師や漫画家や油彩画家として、様々な下積みを経ていた事から、油彩、水彩、鉛筆デッサン、漫画、イラスト、など、どんな指導の需要でも、柔軟に応じる事が出来た。ここまでのエピソードで書いてきた、東京時代を含めての苦しかった出来事、空振りにも思えてきた学んできた事たち、それが全て無駄ではなかった事を強く実感する。順調に歩み続けた。
そんな中で、2020年4月、コロナ騒動が突然襲い掛かる。
ようやくうまくゆき始めた頃に、世間全体の様相が一気に変わる。身も凍る様な、気を遣う事の数々。理不尽な被害の数々。毎日薄氷を踏むかの様な思い。世の中の全ての立場の方が苦しんだが、ことに、店舗型の営業形態の方々、自営業者の方々、ここまで頑張ってきたそんな方々が直撃を受けた。「佐藤豪絵画教室」も例外ではなく、この時期には“ここで簡単に書く内容ではないくらいに”、苦しい思いをした。
しかしそれでも、教室に残ってくれる生徒の皆様があった。個展を支援してくださる皆様があった。教室では、皆様の頑張る姿を常に見続けた。自分自身、希望をテーマにした絵が増えた。画家だからこそ、出来る事があるのではないかとも考え、退く事なく前に進む事を大切にした。
そんな中、“不要不急”と言われながらも、心を強く持ち開催した2020年11月の個展は、「 Spirits' Circle 」と命名、“可視化された精神性”をテーマにした。誰もが苦しい時だからこそ、試される、強い精神。試練の時に、人々の心が離れず、崩壊せず、輪になれるか。個展「 Spirits' Circle 」の中でもメインの絵は、一羽の海鳥が、大海原をゆく絵で、行く手には美しい虹の輪、Circle があり、そのゲートをまさに開くかの様に突入してゆく絵。その絵のタイトルは、「 Spirit's Gate 」。今まさに心のゲートを越えよ、という絵である。人々が心や精神を紡いで輪になれるか、一方で、個人個人が、気高い精神性で、個々に苦境という壁を乗り越えられるか。その思いを託して。
コロナは、次々と形態を変えしつこく襲ってきたが、やがて人々の心も変わってきたと思う。形骸化した様な対策やニュースに、どれほどの意味があるのか。無意味に不安だけを煽る報道地獄や、規制地獄、それら人災を早く終わらせて、日常を取り戻すのみ。それを誰もが感じながら、それでも丁寧に対策を行い続け、この騒動が早く終わってくれる事を祈り続けた。
その年を越えた2021年には、佐藤豪絵画教室の、初めての正式なグループ展、「第1回 佐藤豪絵画教室 グループ展」を開催。同年、9月、11月、と、個展も開催出来た。改めて、本当にたくさんの方とのご縁の大切さや、有難さ、そして絵が大切なものである事、を感じた。皆で強い心を持ってゆこう。自分は絵を描き続ける事で、それを表してゆきたい。精神を丸裸にされた時期だったからこそ、得られた“強さ”もあったはずだ。
この様に、2018年1月の絵画教室開始から、2021年末までの4年間は、充実しながら、様々に思う事のある時期だった。人とのご縁や、絵の意義、多くを熟考し、強く感じた、そんな大切な時期だった。
2022年、コロナ禍も形だけみたいになってゆき、個展などのイベント事も、割と日常に戻ってきた感があった。
この頃に、絵本のイラストレーションを手掛け始めた。これは、とある方からのご依頼で、その方の手掛けた絵本の原作があり、その約30ページにわたる横長の絵を請け負って描かせて頂くというもの。実際には、その原作の方は作曲までもされて、シーン毎に固有の曲がその都度付くという、詩絵本形式のものだった(原作+音楽+絵=詩絵本)。ストーリーは、中世ヨーロッパのイメージで、姫、国王、王妃、ドラゴン、人語を話す動物たち、半獣の一族たち、などが登場するもので、ファンタジーである。
自分自身が、10代の頃にドラゴンクエストやファイナルファンタジーを中心とするファンタジー要素を多分に含むゲームに多く触れてきたり、映画、テレビ、漫画、小説、などでもファンタジーに類するものに多く触れてきた。全てに夢中になっていた。大人になっても、その時の熱量は全く冷めていない。ファンタジーは本当に自分のやりたかった事の一つだったので、ここに至って本格的にやれた事、本当に本当に嬉しかった。
また、原作ストーリーも奥深くて素晴らしく、馴染み深いファンタジー要素がちりばめられながらも、大人向けな人間模様、社会が描かれており、人間の弱さや強さ、激情や愛、などが次々展開する、面白さの中にも人の世の縮図が表されている重厚で壮大なものだった。
作画は大変でもあったが、漫画制作に近い感覚もあって、楽しく制作し続けた。一方で、自身のメインコンテンツである油彩画も例年通りに制作し、個展は、2会場を同時に借りて、「油彩+イラストレーション展」の形でダブル個展として行う様にもなった。リアル描写の油彩画と、創造によって描くファンタジーイラストレーションの組み合わせは、個展の来場者の皆様にも好評だった。漫画畑を前身としていた事も皆様ご承知だったので、“イラストレーションは画家佐藤豪の一側面でもある事”は、すぐに受け入れても頂けた。
また、この間、ほぼ毎年個展をさせて頂いているギャラリーカフェ「カモメのばぁばぁ」の、年間スケジュールカードの表題写真に入れてもらえる事になり、ロートレック作「ルイ13世風の椅子のリフレイン」を模した写真撮影に参加させて頂いたりも。
2023年、「佐藤豪絵画教室」は、生徒の皆様がより増えてきた事によって、さらに新たなテナントに移転。4坪のテナントから、今度は10坪の広いテナントになり、ようやく絵画教室の理想形になってきた。これは本当に、皆様のこれまでの支えがあったからこそ。そしてこのエピソードを書いている2024年現在、長い方は、6年以上ご愛顧くださっていたり、または美術系受験生の方とは個々に受験までの猛レッスンの日々があったり、または個展という目標を持つ方とはそれを叶えるまでの日々があったり、親子、ご兄弟で通ってくださっている方々、中には事情があって他者に馴染めないけれど絵が好きで通い続け、絵を通して成長して、やがて凄い作品展示が出来る様になったある方など…、本当に多くの方が、講師と受講者という枠を超えて、ずっと大切なご縁になっている。
2024年の現在、この様な状況にいて、感謝し尽くせない全ての出来事に恵まれている。これらの大切な事に応えるには、絵を描き、個展を続け、絵画教室を続け、一見何気ない日常・毎年を、丁寧に積み重ねてゆく事だと思う。もちろん、絵本イラストレーションを近年始めた事の様に、事あるごとに新たな何かにはチャレンジし、自身を成長させ続けたい。
ここまでのエピソードをお読みくださって、有難うございます。