2003年8月(26歳)、「FLOW」という漫画作品で、講談社 週刊モーニング 第14回 MANGA OPEN 大賞受賞。その翌月の9月、週刊モーニング誌上にて、漫画作品「FLOW」漫画デビュー。
受賞に至るまでには、様々な背景があった。
遡り、2002年の年末に、この1回前の、第13回 MANGA OPEN に、読み切り漫画作品を1作投稿し、小さな賞を獲得していた。題は「ふたりの一日」。
この第13回の「ふたりの一日」の方では、選考結果は奨励賞に過ぎず、これはものの数ではなかった。しかし、講談社の担当編集者の方が代わるというきっかけとなった。とある編集者の方が、この時の僕の作品「ふたりの一日」に興味を示し、僕を指名してくださったのである。
それから、2003年の春にかけて、新しく組んだ担当編集者の方と、公募でのもっと上の受賞を目指し、ネーム(プロット)の打ち合わせを繰り返す日々があった。これが冒頭に書いた「FLOW」という漫画の始まりであった。当時一人暮らしをしていたアパートから、講談社のある護国寺まで、打ち合わせをしに、足しげく通った。一方でそれは、生活費のために、似顔絵屋は似顔絵屋で営業をし、夜間はキャバクラのボーイをする等、漫画制作というクリエイティブなことを求める中で、金銭面でとことん苦労する日々でも、あった。
2002年の年末、クリスマスシーズン、キャバクラのボーイだった僕は、店の古びた洗濯機で、キャバ嬢たちのコスプレ衣装と称する“サンタ服”を大量に洗濯してソファーに干していたことを、忘れることはない。また、大晦日も元旦も返上して、初詣客でごった返す浅草寺の境内で、似顔絵屋をせざるを得なかった、金銭面・体力面の余裕のなさも、忘れない。キャバクラのボーイ、似顔絵屋、漫画のネーム制作という、トリプルワークの日々だった。しかもこんな時に限って、歯の治療が重なり…、生活環境は、ガタガタだった。
悔しさも鬱屈も屈辱も、バネにして、這い上がりたいと願う一方、ほとんど寝ない日が続き、体力も精神力も、最もきつい頃だった。
漫画の担当編集者の方は、作品に対して厳しい目を持っておられる方で、この方との打ち合わせは、漫画を超えて、様々な勉強になった。漫画作品「FLOW」のネームは、幾度も手直しをし、幾度も担当編集者の方に持ち込み、幾度も不備を指摘され、作品作りの厳しさを改めて実感した。幾度目だっただろうか、熟考して満身創痍で描き上げた、最後の血の一滴までを絞り出したようなネームで、やっとOKをもらえたのが、2003年4月のこと。
黙ってネームを読んでいた担当編集者の方が、読み終えた後にひと言、「頑張りましたね」と言ってくれた。そのひと言は、仏の言葉を聞いたような気持ちだった。
「佐藤さん、佐藤さん」と、いつも僕を励ましてくれる方だった。
作品世界についてこれほど深く踏み込めて話せることが出来た方は、後にも先にも、この方以上の誰かには、出逢ったことがない。この方に褒めてもらえることが、僕はいつも、本当に本当に嬉しかった。
ネームがOKをもらえたなら、今度は、それを原稿に起こすという作業が待っている。漫画原稿は、この2003年5月、あまりに時間がなくて、浅草寺での似顔絵屋の、客待ちの間、露店のテーブルの上で砂埃を掃いながら描いていたのをよく覚えている。5月末がこの公募の締切日であった。締切日までに原稿を上げるのは、本当にきつかった。それでも、何とか締切日までに描き終えた。漫画原稿は、48ページに及ぶものだった。
漫画を公募に出し、選考結果が出るまでには、数ヶ月かかる。
僕はその間、次なる金繰りが必要で、千葉の東松戸という所で、夏季のアルバイトに明け暮れた。遠かった。何も、東京と千葉の距離でアルバイトをしたいわけがない。しかし、僕がしたアルバイトは人材派遣のもので、その強引ともいえる派遣先が、千葉というものだった。背に腹はかえられない。だから、やった。交通費を浮かすために、原付バイクでそこまで毎回往復した(もちろん交通費の詐取ではなく、先に自腹で払う交通費さえ厳しかったというもの)。東松戸で大半を過ごした2003年の夏、仕事での火照りもあって、とても暑かった。
ところで、担当編集者には、日頃から、僕が今資金に乏しく、仕事やアルバイトが必要だという件を、よく、話していた。そんなご縁から、担当編集者の紹介で、この8月から漫画アシスタントを開始する(アシスタントのエピソードについては、後述)。
そのように色々あった、この夏の終わり、2003年8月のある日、担当編集者の方から、描き終えて公募に応募していた「FLOW」の、その選考結果の知らせが届いた。
受賞。
漫画の受賞ということ自体は、人生で5回目のことなので、もう驚きはしなかった。しかし、その次の瞬間、その中身には、心底驚いた。それは、「大賞」との結果だったからである。大賞の受賞はすなわち漫画デビューを意味し、それは僕の願ってやまない、いつ叶うか分からない、遠い夢でしかなかったものだったからだ。すぐには実感がなく、それを嬉しさとして消化するまでには、少し時間がかかった。
その結果を聞いた日の夜、アパートのベランダから夜空を眺めて、何とも胃がスッキリしないような感じがしていたのを、よく覚えている。
自分の漫画が掲載された漫画誌が発売されるのが、待ち遠しかった。その掲載誌の発売日は、2003年9月4日。コンビニに漫画雑誌が陳列され始める午前3時くらいに行き、すぐ買い、その夜道を、大事に大事に、持ち帰った。
担当編集者の方のご尽力あればこそで、今でもその方のことを、そして、そのきつさの中で、長年の夢だった結果の一つを手の中に掴んだ日々を、忘れることはない。
僕は、例えば、いつも誕生日を祝い合ってとか、いつも飲みに行ってとか、いつも友人が大勢いてとか、そういう青春は、残念なことに、歩んでいない。いつもあったのは、作品に関わる日々と、試練というものばかりだった。その20代の試練の中でも、最たる年が、2003年だったといえる。
僕の2003年は、ドラマティックだった。
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